日本語も英語もちょっと変な長男を見て考えていること
「きゃーに乗りたい」
って最近長男がよく言っている。
時々英語が混ざる長男は猫のことを「きゃー(cat)」と言うから、
なんで猫に乗りたいなんて言うのかなぁ?と私は疑問だった。
「なんできゃーに乗りたいの?きゃーは乗れないんじゃないかなぁ?」って聞くと、
「じゃあほせは?ほせなら乗れる?」と長男。
ほせとはhorse、馬のこと。horseに乗りたいという発想になるのはわかるんだけど。
・・・なんて思ってたのがある日解決した。
「きゃー」はcatじゃなくてcowのことらしい。なるほど納得。
牛なら乗れる大きさだもんね。
★☆★
英語を普通に混ぜ込んでしゃべる長男の話は、上記の例みたいに何を言ってるんだかよくわからないことがある。
そしてまだ3歳なので、日本語も変なとこがちょいちょいある。
例えば目立つのは、このごろ仮定の話をよくしているから、
「長男くん羽があったら一人で飛んでいい?」とか突然聞いてきたりする。
このとき「羽があったら一人で飛ぶ」みたいな形の文章なら正しくしゃべるんだけど、仮定の話を疑問形で聞いてくるときがちょっとおかしい。
「羽があったらは?」
「長男くんがおりこうにしてたらは?」
「次男くんが大きくなったらは?」
みたいな感じで、「こういう状況下においてはどうなの?」という意味の「は?」が必ずつく。
ちょっと変な日本語に英語が交じると更にカオス。
「どのー(Donald)悲しかったらは?くらい(cry)する?」
「ドナルドが悲しい時は泣くのか」と聞いてくる時の長男の言い方。
★☆★
日本語も英語もどこかおかしい我が子を見ていて、
「母親以外の人とちゃんとコミニュケーションが取れるのか?」
「きちんとした日本語も身につかないのではないか?」
「先に日本語の基礎ができてから英語を教えるべきではないか?」
みたいなことを思う時はもちろん少しある。だけど、これに対する私の答えっていうか信念?みたいなものもあるから、ゆるゆる英語育児をやめるつもりもない。
っていうのが今日書いておきたかったこと。
まず、
「乳幼児期から複数言語を浴びて育つ子」の方が世界的に見れば普通なんじゃないか
ということ。
だから、「まず1ヵ国語のみに集中させるべきか」みたいな議論自体がナンセンスな時代になっているというか。
言語学?教育学?的な理想みたいなものはあるのかもしれないけど、それでも、現実としては複数言語にさらされて育つ子もすごく多いんだから、我が家もそれでいいじゃんと思うというか。
国際結婚の夫婦だって今後ますます増えるだろうし、スイスのように複数の公用語がある国の人にとっても、複数言語が入り交じることは日常。
「親は両方日本人だけどアメリカに住んでます」っていう人だって普通。
逆に言うと、国境がこれだけ低くなった現代において、「日本語しか浴びせない」っていうのは子供の可能性を奪っているんじゃないかな?とすら(私は)思う。
「子供の可能性を奪う」とまで思う理由はもう一つあって。
大学に在学中、タイの大学で2週間ほど講義を受ける機会があった。
専門科目のね。そのときに驚いたのは、
「専門用語のタイ語がそもそも存在しないから、英語で学ぶしかないんだ」と言われたこと。その時の衝撃は忘れられない。
日本語もそのうちこうなるのかも・・・!って思ったから。
日本でも研究の世界では英語の論文を参考にすることがもはや普通だから、そのうち、
「専門用語に日本語が存在しないから、専門的な知識は英語で学ぶ時代」になるんだろうなって肌で感じたというか。
こんな時代に万が一「英語嫌い」な子供になってしまったらこれも色んな意味で大損失である。
というわけで、グローバル化の波に乗って、ゆるゆる英語育児はやめないよ。
おわり。
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